2005年12月5日

日本の新聞を読んでいると、日本は平和でほんとうに良い国だと思います。なんといっても紙面が平和なのです。先日も、むかし神戸で一緒に警察回りをした某紙の記者が、ベトナムからの特派員便りで、サッカー選手ジョージ・ベストのベトナムでの知名度について書いていました。平和ですなあ。

ヨーロッパの新聞を読んでいますと、90年代に旧ユーゴスラビアを吹き荒れた内戦と虐殺の嵐についての記憶が、今なお生々しく、21世紀の文明も薄い皮膜をはがせば、獣性がひそんでいることに気づかされます。げんなりさせられるような、残酷な内容の記事もあります。ボスニアにはよく行くので、こうした記事を読むと、暗澹たる気分になります。

また60年前のナチスの暴虐の記憶も、今日の政治の中で今も脈々と生き続けています。極端な言い方をすれば、ナチスの時代に関する記憶なしに、ドイツの現代政治は理解できない部分が多いのです。60年前に戦争に関する記事が載っていない日はほとんどありません。

それに比べると、日本の新聞を読んでいても、60年前の加害者としての記憶について語る内容はほとんど浮かび上がってきません。平和とはありがたいものです。読んでいて不快になるような、加害者としてのつらい記憶など、忙しい日常の中で、読みたくもないでしょう。日本の新聞のホームページを見ていても、ほとんどの新聞社はまず社会面、次にスポーツ、エンターテインメントなどが出てきて、政治、経済、国際はかなり後の方になります。読む人の関心の度合いを示しているのでしょうか。

ただし我々は、周辺の国々が日本をじっと見ていることを、特に日本で何が伝えられているかについて、じっと見つめていることを忘れてはなりません。